鳥羽新田八幡神社のこと
まちの記憶 うつろう明石の情景
鳥羽新田八幡神社 集落拡大の中心に
鳥羽新田村の興りは、江戸時代の1660(万治3)年と伝えられる。林村から鳥羽村を経た10戸、大窪村から2戸が移り住んだといい、鳥羽新田八幡神社も同年の建立とされる。
ほどなく林崎掘割が拡張され、水を得た村は潤う。最初の12戸は移り住んでから約350年がたつ。その1軒で、子孫に当たる井上喜博さん(74)=鳥羽=は「戦時中、国民学校への集団登校で毎朝、神社に集合しました。道中は田んぼばかりでした」と話す。
井上さんは「神社は村の中心で、私には大きな存在」と話し、にぎやかだった秋祭りを振り返る。家の長男は笛と太鼓、次男や三男は獅子舞を担当したという。「だんじりも出て、明石の街まで練り歩きました。勉強中に上級生(?)が家に来て『練習に来い』と言われ、大変でした」と苦笑する。 (?)は、井上がつけた。同級生以下が多かった。
田畑が広がっていた神社の南側も、昭和30年代ごろから次々と家が建ち始め、今は住宅地になった。周囲の風景は一変したが、神社は鳥羽新田村の歴史を伝えている。
神戸新聞社明石総局 永田憲亮
コメントにお答えします。江戸時代には、永代にわたって農地売買が禁止されていました。ただし、質流れだけは容認されていました。私の家には、質店を経営していた跡が、建物に残されています。
私の家は、約10町歩の、JR西明石の駅の北側では、最大の地主でした。農地改革のときは、元地主で、明石市での上限、1町8反(1.8ヘクタール)を所有することができました。分家が、専業農家であったので、数反、名義を無償で貸しました。しかし、後ほど、元蚕糸試験場、当時、農事試験場から、桑畑を、数反、返却してもらいました。結局、1.8町歩程所有することになりました。
村の中には、4軒ほど、元地主がいました。元自作農は、2軒でした。他は、全て、元小作農でした。これらが、全て、新興自作農になりました。
あまり知らされていませんが、農地改革後にも、小作制度は残っていました。小作料が、固定資産税・都市計画税より少ないぐらいに、公によって定められていました。勿論、金納でした。
アメリカ軍に占領されたから、農地改革が行えた、とも言われますが、そうではなく、人類史の流れによることであったと思っています。


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